間切時代の番所

沖縄の伝説や歴史を調べていると、ちょこちょこ目にする“番所“という存在。
琉球王府時代、番所は今の役場に当たる施設で、役場兼宿場の性格を備え、那覇から国頭への宿次として交通の要所になっていました。
読谷にある喜名番所跡は、古写真や配置図を元に可能な限り、当時の木造平家建ての姿を復元させた建物です。

喜名番所

ここ喜名番所は、第二次世界大戦前までは読谷山役場として村の行政・文化の中心になっていたが、沖縄戦で焼失。

1853年6月には、恩納間切から南下してきたペリー提督配下の探検隊もここで休憩して地元民から歓待を受けた記録が残ってるそうです。

2005年、世界遺産周辺整備事業により、喜名番所と周辺道路整備が完了。発掘調査により大量の灰色瓦が出土。
喜名番所は古写真と配置図を元に可能な限り、木造平家建ての往時の姿を再現した建物です。

間切時代、沖縄県内には多くの番所がありましたが、本格的な木造瓦葺きで再現されたのは喜名番所が初めてです。
2006年には道の駅として登録されて、観光案内所・休憩所として利用されています。


そう、ここは道の駅なんです!
僕は初めて見た時歴史的な建物っぽすぎて、入っちゃダメなのかなと思っちゃった・・(笑)

でも安心して入っていい、むしろ入ってくださいってわけですね。

建物の中には観光情報や特産品を紹介する写真パネルなんかもあります。

喜名

番所が間切時代に役場的な役割を果たしていたという事は、この喜名番所があった喜名という場所が読谷の中心的な場所だったのかも知れませんね。

ただ、沖縄の地名のつけ方によると、この“喜名“という名前、山原ではチナーともキナーとも言われており(元の語音はキナと思われる)、チナーもしくはキナーというのは、開墾地を意味するそうで、開墾地の畑を“チナー畑“と言いました。

なので、読谷の喜名も元々は他の部落よりも後にできた場所で、元々は“開墾地“という意味で“キナ“と名付けられたのかも知れませんね。
きっと漢字は後づけで(笑)

それが間切時代には番所が置かれて人がたくさん集まる場所にまで発展していったってのは、今の沖縄でも通ずる考えですよね。
今は人なんて全く訪れない場所でも、観光施設がデデーン!と出来たら一気に人が集まる様になるんでしょうね〜。

沖縄本島北部のどこかでそんな話がチラホラ聞こえて来ますが(笑)

読谷山(ゆんたんざ)から読谷へ

読谷は、南城市の様に合併(玉城・知念・佐敷・大里)、もしくは八重山村の様に分割(石垣村・大浜村・竹富村・与那国村)、はたまた美里村の一部から石川市に分立などの様に、合併や分割、分立をしていない状態にも関わらず、村名が変わった珍しい市町村です。

読谷村は、元々は“読谷山(ゆんたんざ)村“という名前でした。
村名を変更したのには、沖縄戦が関係していました。


戦後、収容所に入れられていた人たちは、順次自分の元居住地へ帰ることが許され戻っていきました。
しかし読谷山村は米軍による上陸即飛行場の建設、軍需物質の集積所等で広く軍事施設として使われていた為、村民の帰郷は容易ではなかったといいます。

その為、他の村の者より帰村が遅れ、収容所のある地元民から厄介者扱いされ、食料も窮困し栄養失調で倒れる者も多かったそうです。
背に腹はかえられないと、夜逃げする者や物取り(当時は“戦果“といった)をする者が多く、刑務所に入れられる者も続出し、戦前の読谷山(ゆんたんじゃ)と言う栄えある村名はいつの間にか「ユンタンジャー」という侮蔑の名前に変わりました。
そこで、移動が許されたことを機に、人心を一新して村の復興に望もうということで、村名を「読谷」に変更しました。  読谷村史 「戦時記録 下巻 第五章」 参照




読谷山村民の名誉の為に言うと、村に帰れないのは村民のせいではなく米軍側の都合なんです。
それに読谷山村民も帰れないのをただ黙って待っていたわけではありません。

戦災でほとんど破壊されたとは言え、当時村内には現存家屋も多く残っており、畑には芋もたくさんありました。しかし、近くの収容所に住むものが、トラックで乗り付けこれらの家屋を崩して持ち去ったり、農作物を荒らす“戦果あさり“というものが横行していました。

事態を重くみた当時の読谷山村長が、民政府に願い出て監視隊を結成し巡回にあたります。
巡回をし読谷山村を守りながらも、政府には一日も早い帰村許可を願いでます。
やっとで帰村の許しが出たのは、他の地域に遅れること約1年。1946年8月に、波平と高志保の一部に全村民待望の移住許可が降ります。

見渡す限りの米軍施設に、接収を逃れた家屋も倒壊し石垣は崩れ、雑草がはびこり道路もないという戦前とは変わり果てた様子の村を復興する為、読谷山村長は600人の「読谷山村建設隊」を結成。
未だ各地で帰郷を願う村民の為に、村長を中心に戦後の復興に取り掛かりました。

しかし、突然米軍から「建設中止」「移住中止」の命令が下り建設隊は退去を余儀なくされます。
この突然の中止命令の理由は、米軍飛行場からの軍需物質の盗難が大きな理由であったといいます。         「読谷村史(戦時記録 下巻)」参照



それから10日ほど経って中止命令が解かれ「居住許可」は下りたが、「波平中南部の一部は居住も耕作も認めず」という新たな条件が追加された許可でした。

そういう紆余曲折を経て、村民の帰村も概ね済んだ1946年12月、第一回村政委員会において、「読谷山村」から「読谷村」への改称を決議し、新生読谷村が発足したのです。 「読谷村史(戦時記録 下巻)新生“読谷村“へ 参照

終わりに

初めは喜名番所の事だけのつもりが、調べ始めると次から次へと気になる事が出てきて、どこで区切っていいか分からなくなっちゃった。

読谷山から読谷に村名が変わった事については、この記事を書き始めた当初は調べるつもり全くなかったのに、最終的には村名変更のブロックがボリューミーになってしまった(笑)

でも改めて、読谷村民の名誉の為にもう一度言いますが、収容所から帰村したかったけど出来なかったんです。
もちろん盗みは悪い事ですけど、物が何も無く、盗まなければ死んでしまう状況だったから。

何だろう、読谷をつい応援したくなっちゃうこの気持ち。
きっと読谷に僕の苗字と同じ“瀬名波“と言う部落があるからかな。



もしくは、読谷に恋したのかもしれない。




どういう事?

かいたひと
ゴリラ勇介

沖縄で「ゴリラコーポレーション」というコンビで芸人をやっています。
普段は漫才やコント、新聞での執筆活動、ラジオで喋るのも聴くのも好きで、ラジオ沖縄では「people wave α」という番組もやりつつ、タイムテーブルでラジオコンシェルジュを執筆しています。RBCiラジオでも「只今いきものんちゅ」という番組をやっています。

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