海中道路

沖縄本島中部、うるま市にある海中道路。
名前だけ聞くと、海の中に道があるの・・?
なんて思う方がいるかもしれませんが、そういう訳ではありません。
でも、車で走ると物凄く爽快な気分になれる場所なので、せっかくなんで紹介です!

海中道路ができるまで(歴史)

海中道路とは、1971年に勝連半島と平安座島をつなぐ為、アメリカの石油会社 ガルフ社が着工し総工費200万ドルをかけ1972年に完成した全長4.7km(現在は県道と接続され5.3km)の海面道路です。
当時のレートが1ドル360円ぐらいなので、ざっと計算しても7億円以上のお金を一企業が出した事になります。
そのおかげで、勝連半島どころか沖縄本島の人みんなが気軽に平安座島に渡る事ができるようになりました。もちろん無料で。・・・すごっ(笑)

平安座島に進出する事になったガルフ社は、平安座島を石油貯蔵基地として石油タンクが並ぶ臨海工業地帯にしました。平安座島の島民への見返り事業と沖縄本島までのパイプライン敷設のために、ガルフ社の負担で海中道路を作る事になったと言われています。
ガルフ社自体はその後他社に吸収合併されて無くなってしまいますが、今でも平安座島の島民への見返りとして、島民は優先的に石油基地内で働けるって話を聞きます。


そんな海中道路ですが、完成後1974年に旧与那城村に無償で譲渡されて村道となります。
1991年に県道に昇格すると、道路改良を開始。
そして1999年にこれまでの片側1車線の2車線道路から片側2車線の4車線道路になり、道路の途中にはロードパークも完成。
それまで掛かってた橋も長いものに掛け替えられ、さらには2003年にはロードパークに海の家「あやはし館」がオープン。


ここあやはし館2階に併設されているのが“海の文化資料館“
海中道路の拡張工事を終えた2002年に開館。
旧与那城町の地域資源を積極的に発掘し、その1つである海をテーマとした沖縄県内唯一の資料館として、古くは琉球王国時代から第二次世界大戦前後の一時期にかけて活躍した山原船の展示をはじめ、海にこだわりを持った資料館となっています。
僕が訪れた時は朝はやく、まだオープンしてなくて入れなかったので、今度ゆっくり訪れたいと思います。

海中道路ができる前

勝連半島と平安座島の間の海は浅瀬が広がる海域だったようで、干潮時には歩いて渡る事ができた様です。
また、アメリカ軍から払い下げられた水陸両用トラックが勝連半島と平安座島を結ぶ交通手段として活躍もしていたそうです。

また、浜比嘉島と津堅島などと合わせて与勝海上公園として美しい海だったが、平安座島に石油貯蔵基地が建設され、ガルフ社が海中道路を造成して臨海工業地帯に変わってからは、のどかな島の美しさが失われつつあるとの意見もあり、実際に海中道路を作る際には反対意見もあった様ですが、その反対を押し切って建設された歴史があるとか。

これだけ大きな事業だし、ましてや海に道を造成するってなるとそりゃ反対の意見も出るよね。

もっとも、海中道路は島民の念願だったのも事実で、ガルフ社が海中道路をつくる前、1960年に島民が“海中道路建設期成会“を結成して橋の建設をはじめますが、200mほどつくったところで台風の被害に遭って工事が頓挫しています。

海中道路の現在

沖縄に訪れたら通ってみたい道ランキング(僕が勝手につくったやつです)でもトップ10入りする海中道路が、元々は石油を運ぶための道だったとは。
しかも一企業がつくった私道。
そんな海中道路は、私道から村道、村道から県道となり整備されていくにつれて、現在では潮干狩りやマリンレジャーを楽しむ人たちが多く訪れるようになりました。
特に家族連れが楽しんでいる姿を多く見かけますが、全体的に浅い海なので子供がいても遊びやすいのかもしれません。
もちろん自然が相手なので、遊ぶ際は細心の注意と、お子さんから目を離さない様にお願いします。

最後に、船の通り道と潮の流れのために、海中道路には2箇所の水路がありますが、釣りをしている人の姿もよく見かけます。
橋にもこの様に、イカを釣り上げた跡(墨)がありましたけど、橋の上は釣り禁止なのでルールを守りましょうね〜!
大丈夫、その腕なら橋の上からじゃなくてもきっと釣れる!!

かいたひと
ゴリラ勇介

沖縄で「ゴリラコーポレーション」というコンビで芸人をやっています。
普段は漫才やコント、新聞での執筆活動、ラジオで喋るのも聴くのも好きで、ラジオ沖縄では「people wave α」という番組もやりつつ、タイムテーブルでラジオコンシェルジュを執筆しています。RBCiラジオでも「只今いきものんちゅ」という番組をやっています。

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