金城町石畳道
首里城周辺は赤瓦屋根の建物や、首里城を始めとする歴史的な建造物や場所も多く、琉球王国時代の風情を感じる事が出来ます。
首里金城町にある“石畳道“もその中のひとつです。
金城町の石畳道は、尚真王の時代、首里〜那覇港〜南部までをつなぐ“真珠(まだま)道“の一部として1522年頃造られました。
現在は、沖縄戦の戦火を奇跡的に免れた300mほどが残っています。
石畳は、琉球石灰岩を不規則に敷き詰めており、この石の敷き方を“乱敷き(みだれじき)“といいます。
さらに、雨水が石畳に浸透・濾過(ろか)し、用水溝から村井(むらがー)へ誘導するという非常に高度な土木技術が施されており、その技術は現在でも復元が難しいと言われています。
加工しやすく、水が浸透しやすいという琉球石灰岩の特性を生かした技術であり、琉球王国時代の土木技術の高さが伺えます。
そして琉球石灰岩のもうひとつの特徴として、年月を重ね表面が削れていくと、滑りやすくなることが挙げられます。
特に雨降りや、雨降り後の濡れた状態の石畳道は、非常に滑ります!
急勾配でもあるので、歩く際には注意が必要です。
首里城側から石畳道に入るときは、入り口にこんな看板があります。
ただ、首里城側から入る場合は下り坂になるので、上りより滑りやすくなりますので、転ばない様に一層注意が必要です。
真珠道
金城町の石畳道は真珠道の一部と言いましたが、真珠道は守礼門の東南の脇にあったと言われる石門を起点に、シマシー坂・金城坂(現在の金城町の石畳道)・識名坂を通り真玉橋に出て、石火矢橋(イシバーシ)を渡り、豊見城グスク城門前より小禄の丘の中腹を抜けて那覇港南岸に至る道で、いわゆる軍用道路だったと言われています。
というのも、真珠道建設および真玉橋架橋の由来を記した碑文「真珠湊碑文」に、“この道路および橋は、一般の交通の利便に共するほか国土の防衛のため王命によって建設された“とあります。
外敵が侵入する事態に備え、首里城から真玉橋を経て那覇港南岸に軍勢を集結させる事を想定して造られた道だったのです。
真珠道の一部を紹介しますね。
まず有名な真玉橋。
写真は真玉橋遺構です。
真玉橋について詳しくは
↓ ↓
真珠道/真玉橋 歴史
真珠道/石火矢橋(イシバーシ)
案内板によると
豊見城グスク南東を流れる饒波(のは)川下流にかかる橋で、戦前までは美しい曲線のアーチとそれを支える独特な形の橋脚が連なる5連の石造アーチ橋だったそうです。
橋がいつ造られたのかわかっていないそうですが、橋には三山時代(琉球王国になる前)、尚巴志が南山の支配下にあった豊見城グスクを攻めようと城内に女間者を送り、策略によって架けさせたという伝説が残っています。
なので伝説が本当なら、真珠道の為に架けられた橋ではなく、元から架かってたのを真珠道にしたのかもしれませんね。
元々架かってたのは木橋で、1694年の洪水で損壊した為、1697年に石橋に改修されました。
その石橋も沖縄戦で破壊され、橋脚部のみが1970年代まで残っていましたが、1978年の橋の改修工事により橋脚部分も消滅してしまいました。
おわり
沖縄には石畳道や真珠道の他にも、宿道といって首里を起点に沖縄本島中に道が伸びてて、今でも宿道の面影を残す道や、綺麗に整備されて歴史を学びながら歩く事ができる道もあるので、今度行ってみたいと思います。