沖縄と言えば、木造で赤瓦屋根の家を想像する人もいるかもしれません。
この写真の様な“古き良き沖縄の古民家“的な。
でも実際、僕にとっての古民家は本島中部、中城村にある“おばーの家“が僕の中での古民家で、赤瓦どころか木造でもない、ボロボロのコンクリート造りです(笑)
おばーの家周辺も、大体コンクリート造りの家で、中には建築法に抵触してるんじゃないかって造りの建物もチラホラ見受けられます。(詳しくは言いませんが)
なので、“赤瓦“っていうのに親近感を覚えなくて、むしろコンクリートに愛着が湧いてしまいます。
以前、南風原にある古民家でイベントをさせて貰った時は、いわゆる“昔ながら“の建物を見て・触れることが出来たんですが、その時は外国に行った時と似たような気分になりましたからね(笑)
でも赤瓦について調べると、僕が親近感を覚えない理由がなんとなくわかる様な気がしました。
赤瓦屋根
まず、赤瓦の歴史を遡ると、琉球王国時代になります。
詳しい年代の説明なんかは専門の人に任せるとしまして、赤瓦は元々黒瓦だった様です。
というのも、元々“瓦“というのは“黒い瓦“が普通だったという事です。
そして瓦屋根が許されたのは、グスクや都市部の家など、一部の人たちだけに許された特権で、一般庶民の家は茅葺屋根というのが一般的だったそうです。
なので、地方に住む人にとって“瓦屋根“を見る機会もあまり無かったという事になりますね。
ただ地方の人たちが瓦屋根を全く見なかったのかと言うとそうではなく、各間切の番所(今で言う役所的な所)は瓦屋根を許されていたそうです。
18世紀頃になると、首里などの都市部で瓦屋根の家が多く建てられる様になって瓦の需要が高まったけど、生産が追いつかなかったと。
そこで、安いコストで大量に生産できる瓦としてできたのが“赤瓦“というわけなんです。
そこから、沖縄の気候や風土にも適していた事も相まって、赤瓦が一般的になっていきます。
首里城も1660年までは板葺きだったというので、「板→黒瓦→赤瓦」って感じで装いを変えていったんでしょうね〜。
さ、瓦の需要が高まって赤瓦が生まれたと言っても、まだ一般庶民に瓦屋根が許されていたわけではありません。
一般庶民は19世紀、沖縄県になってからしか瓦屋根が許されていません。
しかも許されたとは言っても赤瓦はまだまだ高価なもので、みんながみんな赤瓦屋根の家に住めた訳ではないんです。
そうこうしてるウチに、沖縄戦で焦土になり、現在に至るって訳ですね。
僕のおばーの家は、戦後、家を建てようにも物が全く無く、近くの海の砂をコンクリート代わりにして建てたって話をしてました。
だから家を建てる時、赤瓦の“あ“の字も思わなかったし、そもそも赤瓦に馴染みないし。って言ってました(笑)
ここに、僕が赤瓦に馴染みがない答えが出てる気がしますね(笑)
おわり
調べた結果をまとめると、沖縄っぽいの代名詞的な赤瓦は、元々“黒“から“赤“に変わったものだったと。
しかもみんながみんな、瓦屋根を許されていた訳ではなく、解禁されたのは明治時代に入ってからの事で、解禁されたとは言っても高価だったので、やっぱり、みんながみんな“赤瓦“にする事はできなかったと。
それでもしばらくしたら地方にも赤瓦が浸透したはずだけど、その前に沖縄戦で焦土になってしまって、赤瓦とか言ってる場合じゃない!ってなって、赤瓦に対して温度差がある現在に至るのかもしれないですね(笑)
因みに、僕のおばーの家に関して、「海の砂をちゃんと水抜きしないで使ったから、膨張してコンクリが剥げ落ちてボロボロなんだよ」って、ウチのハゲ散らかした親父が話してました。
それと、「この辺の家はみんな、部落のみんなで協力して、海から砂を運んで建てたよ。おかげで近所の海の砂浜が無くなったけどね。わはははは〜」だって(笑)
どんな時代よ。
だからおばーの家周辺にボロボロな家が多いんだな。
そんな話を聞くとやっぱり、赤瓦よりボロボロのコンクリートに愛着が湧いてくるな。