琉球王国のグスク及び関連遺産群のひとつで、国宝にも指定されている「玉陵」
ここは国宝にも指定されてて“琉球王国のグスク及び関連遺産群“のひとつとして世界遺産にも登録されている場所なんですが、思ったより知られていない場所なんです。
知られていないって言うのは、「名前は聞いた事あるけど場所が分からない」とか、「そもそも知らない」とか「行ったこと無い」とかとか。
多分沖縄の人でも訪れたこと無い人沢山いるんじゃないかなぁと思う場所です。
今回はそんな玉陵について紹介です!!!
玉陵とは?
ではそもそも玉陵って何なのか?
玉陵は琉球王国の第2尚氏歴代の王様のお墓です。
ピラミッドとか古墳的な〜と思ったけど、個人のお墓ではなく歴代の王様のお墓なので、ニュアンスは一緒だけど若干違うなって勝手に思いました(笑)
扉が3つあり、向かって左側の東室は王様とそのお妃が、右側の西室はそれ以外の王族が納められています。中央の中室は、洗骨する前の遺骸を安置する場所となっています。
もう少し詳しく紹介すると、玉陵は第2尚氏3代 尚真王が、父の尚円(第2尚氏初代)を改葬する為、1501年に造られたと言われています。
沖縄のお墓と言うと“亀甲墓“や“破風墓“をイメージする人がいるかもしれませんが、玉陵も沖縄の破風墓形式をとった最大規模のお墓になります。
さらに玉陵は、首里城をモチーフに造られていると言われています。
えっ、首里城???
赤瓦でも無いし首里城とは形が少し違うような・・・(笑)
はい。首里城って実は過去に何度も火災が起こってて、その度に建て直されてリニューアルしてきました。なので、この玉陵が造られた当時(1501年)の首里城はこんな感じの板葺きで、墓室前には昔の首里城正殿前の石欄(せきらん)を思わせる鳥獣花等を彫った石欄があります。
なので、言うならば“あの世の首里城“って感じですかね。
王様が亡くなった後も、生前過ごしていた首里城に似せた玉陵で過ごしてもらいたいという残された者の想いが施されている建造物なんですね。
ただ、残念ながら元々の玉陵は沖縄戦で破壊されてしまったので、現在の玉陵は1974年から3年あまりの時間を費やし再建されたモノです。
玉陵の見所
色々紹介しましたが、沖縄の歴史に興味ある人じゃないと「いくら世界遺産って言っても、お墓見てもなぁ・・」なんて声が聞こえてきそうですね(笑)
ご安心を!!
見所をある程度知っていれば、何にも知らずに見学するよりかは数倍楽しめます!!
という事で、僕の個人的なおすすめ見所をいくつか紹介しましょう。
玉陵碑(たまうどぅんひ)
これは、欠かせない。
第1の門から入ってすぐの広場(砂地)の片隅にポツンと佇んでいる石碑なんですが、これは1501年当時から残ってる(復元ではない)輝緑石に刻まれた碑文です。
この碑文の内容は尚円王の妃、つまり尚真王の母親であるオギヤカが書かせたとされています。
碑文には
首里おきやかもひかなしまあかとたる
(尚真王)御一人よそひおとんの大あんしおきやか
玉陵碑より
(世添御殿大按司) (尚円王妃・尚真王母)
御一人きこゑ大きみのあんしをとちとのもいか袮
(聞得大君按司) (尚真王妹・月清)
御一人さすかさのあんしまなへたる
(指司笠按司) (尚真王長女・慈山)
御一人中くすくのあんしまにきよたる
(中城按司) (尚真王五男・尚清)
御一人ミやきせんのあんしまもたいか袮
(今帰仁按司) (尚真王三男・尚韶威)
御一人こゑくのあんしまさふろか袮
(越来按司) (尚真王四男・尚龍徳)
御一人きんのあんしまさふろか袮
(金武按司) (尚真王六男・尚享仁)
御一人とよみくすくのあんしおもひふたか袮
(豊見城按司) (尚真王七男・尚源道)
志よ里の御ミ事
この御すゑ八千年万年にいたる
まてこのところにおさまるへし
もしのちにあらそふ人あらハこのすミ
見るへしこのかきつけそむく人あらハ
てんにあをきちにふしてたたるへし
と、刻まれています。
でも何のこっちゃ分かんないよね(笑)
ここには尚真王と6人の子供、そして尚円王妃、尚円長女9人の名前が刻まれており、「玉陵に入れるのはここに名前が載ってる人だけで、これに従わなかった人は祟ります」
ってな感じの事が書いています。
こわっ!(笑)
ただ、尚真王の子供は8人おり、長男尚維衡と次男尚朝栄の名前が記載されていません。
つまりここから分かる事は、王族内に勢力争いがあり長男と次男が廃された事を表していると言われています。
因みにこの玉陵碑は沖縄戦をくぐり抜けた証の銃痕が残っています。
玉陵にまつわる謎①
玉陵の受付がある奉円館の地下に展示室があって、玉陵の内部がどうなっているのかや、玉陵内部に収められている厨子(ジーシ)などを見る事ができます。
※厨子とは沖縄では遺骨を納める蔵骨器の事です
戦前の玉陵には王と王妃と、玉陵碑に載っている限られた家族だけが安置されていましたが、現在玉陵には70の厨子が納められています。
これは、西の玉陵と言われた山川陵が沖縄戦で日本軍の防空壕として使われることになり、そこに納められていた厨子の一部が玉陵に移されたからです。
ちなみに山川陵は王の側室や幼くして亡くなった王子・王女を葬るお墓です。
ただ、70ある厨子をいくら確認しても、碑文を残させたとされる尚円の妃オギヤカの厨子が無いんです。
なぜだ・・・。
玉陵にまつわる謎②
玉陵内部には70の厨子が収められていると言いましたが、それぞれ東室西室に分けられて安置されているんですが、ひとつだけ中室に安置されてる厨子があり、それが誰のか分からないと言われています。
「おっ、じゃあこれがオギヤカのじゃ?」と思ったら、そうじゃ無いそうです。
ただこの厨子について、玉陵にはこんな話がありました。
木田大時(むくたうふとぅち)
昔、よくあたると有名なトキ(今で言う占い師みたいな人)“木田“と言う男がいました。
ある時、王様の子供が重い病にかかりどんな事をしても治らない、そこで王様は当たると有名な木田を呼び寄せると、原因を突き止め見事に治してしまいました。
それに王様は大喜びし木田に“大時“という称号を与えます。(一番偉い占い師みたいな称号)
しかしそんな木田の事を妬む人が現れ、「あいつの力はインチキだ」などと良くない噂を流されます。
その噂が王様の耳にも入り、ついには木田の力が本物かどうか確かめよという事になります。
箱の中に1匹のネズミが入れられ、箱を開けずにネズミの数を当てさせました。
すると木田は「箱の中には3匹のネズミが居ます」と答えます。その途端、王様を騙していた罪で木田は死罪になり処刑場に連れて行かれます。
騙された事にがっかりした王様が箱の中を見ると、なんとネズミが子供を産んで箱の中には3匹のネズミが居ました。
これを見た王様は「やはり木田の力は本物だ!」と喜び即刻処刑中止の狼煙をあげます。
しかし時すでに遅し。木田は処刑された後だったのです。
その事を悲しんだ王様は、木田へのせめてもの償いとして、木田の厨子を玉陵に葬りました。
その木田大時の厨子が、中室にあるモノではないか。と、言われています。
東室は王様、西室はそれ以外の王族、そのどちらでも無いから、木田の厨子は中室なのかな?なんて考えると、まんざらでもなさそうな感じがするけど、実際はどうなんでしょうね〜。
おわり
他にも玉陵の見所はまだまだありますが、そこは自分で足を運んだ時に見てみてくださいな〜。
他にも再建された東の御番所や玉陵の屋根にある輝緑岩でできた獅子、入りにくい門の謎・・などなど、知れば知るほど雪だるま式に面白くなっていきますよ〜!
場所は首里城から歩いて行くことができますので、首里城を見学した際にはついでに足を運んでみてはいかがでしょうか?
※9月5日現在は緊急事態宣言により休園中