国際通りと言えば、那覇空港から最も近い那覇市で最大の繁華街。
県庁北口交差点から安里三叉路にかけての約1.6キロの通りのことで、お土産屋さんが立ち並び、お土産を買い求める修学旅行生や観光客で常に賑わっている通りでした。
新型コロナが猛威を振るう前までは。
新型コロナが猛威を振るう前は、常に人でごった返している状態の国際通りでしたが、そのほとんどが観光客で、ウチナーンチュはあまり見かけませんでした。
もちろん初めから国際通りにウチナーンチュがいなかったわけではなく、どんどん変化していって現在の“国際通り“になったのです。
国際通りの歴史
昭和初期頃の国際通りは、今のように「国際通り」という名前も付いてなく、旧那覇市の中心部(現在の那覇市西や久米)と首里を結ぶ県道で、周囲は畑や湿地が広がるいわゆる“田舎道“でした。
まだ田舎道の頃の国際通りを覚えてる人の話で、「道がジャカジャカー(ぬかるんでる様子)だった」って話も聞いたことがあります。
そんな田舎道が、沖縄1の通りになるきっかけが、戦争でした。
戦争で焦土と化した沖縄は、旧那覇市の中心だった那覇市西や久米、辻などが戦後アメリカ軍に接収されてしまいます。行き場を失った人々は、今の国際通り周辺に集まるしかありませんでした。
当時、米軍に従事する者が物資を横流しし、それを“戦果“と呼んでいました。
国際通り周辺には大量の戦果を販売する闇市が生まれ、焼け野原だった田舎道が目覚ましい発展を遂げました。
そのことから、国際通りは「奇跡の1マイル」と呼ばれていました。
その奇跡の1マイルが「国際通り」と呼ばれる様になるのはその少しあとの事です。
米軍統治下時代の1947年12月、沖縄の人々に娯楽を楽しんでほしいということから今のてんぶす那覇辺りに「アーニーパイル国際劇場」という映画館が造られました。(写真がてんぶす那覇)
これは当時の米軍政府と琉球政府の協力を受けて、民間会社が建設。
「国際劇場がある通り」から、現在の「国際通り」という名称が付けられました。
本土復帰後もアメリカの影響は大きく、「VAN」や「BIGI」などの最先端ファッションのお店が軒を連ね、それらを買い求める若者が多く訪れる通りだったそうです。
それが、1980年代になると一気に観光客の数が増え、国際通りも現在の形に近いお土産屋さんと観光客向けの飲食店が中心になっていき、沖縄の人にはあまり縁のない通りになっていきました。
アーニー・パイル
「アーニー・パイル」は第二次世界大戦中に従軍記者として活躍したアメリカのジャーナリストの名前です。
アメリカ合衆国において、卓越した新聞報道など素晴らしい記者に与えられる“ピューリッツァー賞“を受章した経験もあるアーニー・パイルの報道は、“名も無きアメリカ兵の目線で書かれる記事“として注目を集めたそうです。
1945年4月に伊江島で日本兵によって狙撃され亡くなってしまいますが、伊江島では記念碑が建てられ今でも毎年4月に慰霊祭が行われています。
実はこのアーニーパイルさんの名前が使われたのは沖縄だけではなく、日本を占領下においたGHQが東京宝塚劇場を接収した際にもアメリカ軍の強い要望でアーニーパイル劇場と名付けています。
僕と国際通り
僕は沖縄本島中部の人間なんですけど、国際通りのイメージって言ったら遊びに行くと必ずカツアゲされる場所ってイメージです(笑)
学生時代、中部からバスに乗って行ってたんですけど、国際通りでバスを降りるとすぐにヤンキーが近づいてきて「友達のふりしれ」って小声で言われて、そのまま路地に連れていかれてお金を取られるっていう。だから国際通りに遊びに行くときは多めにお金持って、財布と靴下とパンツの中に振り分けて持ちました(笑)
そんな経験をしてでも国際通りに遊びに行くぐらい、魅力的な場所だったんです。
正確に言うと、国際通りではなく浮島通りとか。
もちろん今ではカツアゲを経験することも少なくなってきてると思いますけど、それでも夜、国際通りを一歩路地に入るとそんなディープな沖縄かじゃ~がするときありますもんね。
なので、国際通りに行った事あるよ~なんて人でも、夜の国際通りの、さらに一歩通りを入ってみると、よりディープな沖縄を感じることがあるかもしれないですね。もちろん、カツアゲされても自己責任でお願いします(笑)