コザという街

沖縄本島中部、沖縄市にあるコザ。
琉球王国時代には“城“があり栄えてたり、戦後は基地の街として栄えたり、逆に基地があるゆえのコザ騒動だったりと、スポットを当てる場所・時代・瞬間によって色んな表情を見せてくれます。
今回は、そんなコザの主に“戦後“にスポットライトをあててみましょう。

コザの誕生

まずすごく簡単に、沖縄市の誕生の説明をしますと、越来村と美里村が合併して「沖縄市」が誕生しました。
越来村は戦後“コザ村“に改名、そして市制を施行して“コザ市“になっているので、正確にはコザ市と美里村が合併して沖縄市が誕生しました。
因みにコザ市というカタカナ表記の市名は日本で唯一ここだけでした。
合併にあたり新しい市名を決める際には名前を公募したそうですが、1番多かったのは「コザ市」でした。
しかし、美里村側からの反対意見や、今後他の地域との合併、当時県と同じ市名が無かった事などの理由から、2番目に多かった「沖縄市」に決定しました。
ただ、色んな名前が公募で集まる中に、「尚巴市」っていう名前もあったみたいです(笑)


この“コザ“という名前の由来には諸説あって、米軍が越来村の胡屋地区の事を間違えて“KOZA”と呼び一般の人もコザと言う様になった説と、隣接する美里村の古謝と越来村の胡屋が混同された説とあるが、どちらにせよ“コザ“の誕生は戦後ということになります。
“コザ市“が合併で消滅して半世紀近く経過する今でも“コザ“という表記を至るところで見ることができますし、コザ辺りの人に出身を聞くと「沖縄市」じゃなくて「コザ」と答える人が多い事からもわかるように、コザの人のコザ愛はかなり強いです。

コザに誕生した独立国

そんなコザの人々ですが、合併して沖縄市となったあと、なんと“コザ独立国“を建国してしまいます。
これは嘘の様な本当の話です。

このコザ独立国は大統領制を採用していたらしく、初代大統領には沖縄ポップカルチャーの第一人者、てるりんこと「照屋林助」さんが就任。そして、建国発起人もこの照屋林助さん。

ポップカルチャーの第一人者が建国の発起人と聞いて、「ん?」と思った方もいるかもしれませんが続けます(笑)

このコザ独立国は1990年、沖縄市の1番街にて建国式典を開催しています。
そしてコザ独立国文化軍 第1回公演「てるりん笑築YUNTAKU LIVE」という、いわゆる国の行事を開催。
開催にあたり大統領がこんな挨拶をしていました。

“コザ独立国の建国の精神はコザの歴史に由来するものであり、戦後、アメリカが沖縄を占領し、アメリカ文化とウチナー文化が混ざり合いチャンプルー文化が生まれました。それがコザ文化。

しかし、チャンプルーというのはゴーヤーチャンプルーと言われる様にゴーヤーがメインだったり、トーフがメインだったりとメインがあります。

このコザ文化もウチナーを中心としたチャンプルーであり琉球文化を基層に置く文化です。

外来の文化だと言って排除するのではなく、その文化を理解し、吸収し、なおかつ自分たちのものにし特異な文化を生み出してきたところが、コザの特色だと思っています。

コザ独立国はそのようなフロンティア精神と、常に新しいものを創造していく精神に充ち溢れた文化国家を作ろうというもので、沖縄におけるエンターテイメントを目指し、チャンプラリズムの世界を披露できるよう文化国家の創造を頑張ります“

てるりん笑築 YUNTAKU LIVE〜チャンプラリズムの世界〜

つまり、コザ独立国の建国はエンターテイメントの益々の発展を願っての“建国遊び“でした。なので実際にコザを守る為に武器を手にして〜とかそいういう過激な事ではなく、あくまでも“エンターテイメント“だったのです。

ただ、色んな人を巻き込んでおり、笑築過激団や泉&やよいさん、上原直彦さんや当時の沖縄市長までもが、ノリノリで独立国建国にお祝いの挨拶を贈っています(笑)
そんな中、当時の那覇市長のお祝いの挨拶の中に「那覇の感覚からすると“コザ独立国文化軍“という名称にギョッとする」という一文があって、「あ、みんなちゃんとまともな感覚をもちつつ面白がってたんだな」って事が分かりました(笑)

照屋林助 てるりん

では改めて、コザ独立国を語る上では「照屋林助」の説明が必要不可欠です。

照屋林助(1929年〜2005年)

“てるりん“の愛称で親しまれた沖縄ポップカルチャーの第一人者。
士族の家柄の生まれだが、廃藩置県で苦しい生活を強いられ、子供の頃は借金のカタに労働提供者として、つまりは人身売買で親に7回売られたそうです(笑)
それでも借金が返せなく、困った親は内地に行く事を決心。
そう、実はてるりん、内地で生活をしていた事があり、この時に友達と弁士の真似などをして話芸の素を身につけます。
内地から沖縄に戻ったてるりん、方言が喋れない事を同級生にからかわれ、引っ込み思案な無口な性格となり、ついには学校に行かなくなって山学校をすることになります。
山学校とは読んで字の如く、学校に行かず山に行きそこで過ごすことで、今でもおじさんとかは学校をサボると「山学校してからに!」って言います。

しかし、同じ様に山学校をする子が他にもおり、その子たちを集めては内地で覚えた落語を披露したりしてました。
元々頭の良かったてるりんですが、学校へ行かなくなるとグングン成績が落ちました。
そんなある日、その事を心配した教頭先生が家の前に。
てるりんを無理やり学校に連れて行き、みんなの前で発表しろ!と言われたそうです。
当時みんなの前で発表することといえば、軍国精神の話とかそういうことばかりで、学校に行ってないてるりんは習ってもないことは喋れないと黙ってたそうです。
すると教頭先生に、「いつも山でやってる様にやりなさい」と言われ、いつもの様に落語を披露すると教室中が爆笑に包まれたそうです。
そこから、てるりんは人気者になり、笑いのためのネタ探子をする日々が始まったそうです。

その当時のネタのひとつがこうです。

いにしえの昔  武士のサムライが  
山中(やまなか)の山中(さんちゅう)にて
馬から落ちて落馬して 真っ赤になって赤恥書いて

ウチナーポップ


てるりんの話芸はすでにこの時から出来上がってたんです。
そしてこの頃に、のちに師として仰ぐ“小那覇舞天“とも出会います。
自転車のベルを「キリン キリン」と鳴らしながら走る舞天を「なんだあれは!?」と面白がって追いかけたそうです。

戦後の沖縄を元気づけた


それから戦争に突入、終戦後は石川の収容所で舞天と再会したそうだが、落ち着いてくるとそれぞれが自分の出身地に帰って行ったそうで、てるりんもコザに帰り家業の楽器屋を手伝っていたそうです。
その時、アメリカ兵が壊れたギターを修理に持ってくる事が多く、そのうち壊れたギターが集まる様になり、
パーツを集めて1台のギターを作ったりしたそうです。
それからしばらくして、エレキ四味線を作ることになります。

1950年頃になると、学校や役所の建設も進み、それに伴いムラのお祝いとして演芸会などが盛んに行われる様になりました。そこに、小那覇舞天のお供として出演、この時寸劇や喜劇、古典音楽に民謡、作詞・作曲と幅広く手がけることになりますが、本人曰く「どれも伸び悩んでいた。自分にとって芸能の修行時代だった」と残しています。
実はこの当時、芸人が成功するかどうかはラジオの放送媒体に乗っかれるかどうかが大きく左右していたそうで、てるりんは郷土出身のタレントとして初めてラジオのレギュラーを獲得しました。
そんな中、前川守康(ゲンちゃんこと前川守賢の父)と“ワタブーショー“を旗揚げ。
一気に人気の頂点へと駆け上っていきます。

息子の照屋林賢がステージでワタブーショーをする父を見て「確かに父と似てるがいつもの父とどこか違う。父はワタブーショーをきっかけに変わった。どこかの異星人と交換されたのか、元から異星人だったのが自分の任務に目覚めたのか」
しかし、照屋林助の出現は沖縄の人々の心に光を与えた。と、林賢さん流の賛辞を送っています。

ワタブーショー

外来の文化を排除するのではなく理解し吸収するというコザ特異な精神を体現していたてるりんのワタブーショーとはどんなショーだったのか。

ワタブーショーはてるりんがそれまでに身につけてきた音楽・芸能の数々をチャンプルーしたウチナーンチュ向けの大衆芸能であり、てるりん本人の言葉を借りると、“ワタブーショーは演芸の一形式であってチーム名ではない“と。
内容は、沖縄の代表作と言われる歌劇「伊江島ハンドー小」などをパロディ化した筋書きにジャズやマンボにチャチャチャ、ルンバ、ウエスタンなどの要素を取り入れた沖縄ポップスを投入、さらに寸劇やスラプスティック・コメディまでをも取り入れた斬新なステージだったそうです。
因みに、戦後のドサクサに紛れて米軍ルートで本土よりも早くデッカ・レコードやビクターのSP盤を手に入れてたそうで、エレキ四味線を作ったりなどでもわかるように、てるりんが無類の「新し物好き」だった事が、ワタブーショーの様な斬新な形を作ったと言えるでしょう。


そして、悪口でもある「ワタブー」を名前にした理由は、ある日事務所に“デタラメアビヤーワタブー“と張り紙があり、それを見てると「面白くて歌にできそう」という事で本当に歌にしてしまったそう。そして、そのまま名前にした。つまり、「悪口を逆手にとって自分の看板にした」という事です。

よくお笑いは短所が武器になるとか言われますが、まさに武器に、しかもとびっきりの武器になったわけですね。

まとめ

実は僕はお笑いを始めた当初は照屋林助さんのことを知りませんでした。
たまたま「ウンタマギルー」という高嶺監督の映画から照屋林助さんやワタブーショーの存在を知り、今のお笑いのどのジャンルにも当てはまらない様な笑いに惹かれました。


照屋林助さんは“遊びの中に本質がある“という考えだったらしくコザ独立国の憲法第1条も「遊びを本分とすべし」だったそうです。
遊ぶなら本気で遊ぶ、すなわち“神遊び“をするべし。という大統領の国らしく、“大人の本気の遊び“を見せてくれたのがコザ独立国なんだなぁと。
そんな照屋林助さんが亡くなった時は、“国葬“としてコザ独立国の国民達が林助さんとの最後の神遊びで送り出しました。

コザを愛しコザに愛された男、その精神が残る限る、また新たなスターがコザから誕生する事でしょう。

かいたひと
ゴリラ勇介

沖縄で「ゴリラコーポレーション」というコンビで芸人をやっています。
普段は漫才やコント、新聞での執筆活動、ラジオで喋るのも聴くのも好きで、ラジオ沖縄では「people wave α」という番組もやりつつ、タイムテーブルでラジオコンシェルジュを執筆しています。RBCiラジオでも「只今いきものんちゅ」という番組をやっています。

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