最近はすっかり沖縄と仏教、トートーメー継承関連の本ばかり読み耽ってブログの更新頻度が著しく低下しましたが、沖縄にはまだまだ紹介する場所がたくさんあるだろ!と、自分に喝を入れられたので張り切ってブログを再開です。
(ここまで全て、登場人物は僕ひとりです)
さて、近頃はコロナ禍で観光施設などには行きにくい、もしくは閉まってる。なんてことが多々ありますが、そんな時期でも、訪れる人が比較的少なく密を避けながら楽しめるスポットを紹介です。
※緊急事態宣言中の外出を推奨するわけじゃないよ
平敷屋タキノー
勝連半島の平敷屋にあります、平敷屋タキノー。
元々標高の高い勝連半島ですが、ここはさらに小高い丘の様になっていて眼下に米軍施設のホワイトビーチが見下ろせます。
晴れてたらもっと景色が良かったんですけどね〜。
さて、ここがどういう場所かと言うと・・・
平敷屋タキノーは琉球王国時代(1727年)脇地頭としてこの地を領していた平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)が、水不足に悩む農民の為に池を掘り、掘った土を盛り上げて築いたのがこの平敷屋タキノーと言われています。
平敷屋タキノーの中心地あたりにこんもりとした丘(丘オン丘)があって、そこに東屋があります。ここから東海岸の太平洋、そしてホワイトビーチが見渡せます。
平敷屋朝敏は1700年に首里の金城村に生まれた和文学者で、組踊「手水の縁」の作者として知られています。和歌や琉歌にも優れており、敷地内には朝敏の歌碑も建立されています。
碑には
哀そのはた打かへす せなかより ながるるあとや 瀧つしらなみ
(この暑さの中で働いている農夫の背中から瀧の様に汗が流れ落ちる姿が気の毒だ)
平敷屋タキノーの碑
と、書かれています。
朝敏自身、貧しい生活をしていましたが、農夫に比べると自分はまだ幸せだ。
という意味の琉歌になるそうです。
自身も貧しい生活を経験していたからこそ、農民など立場の弱い人の生活に目を向ける事ができ、さらには朝敏の人柄を表している琉歌ってところでしょうか。
歌碑の隣には、そんな朝敏の事を紹介する碑文もありました。
“平敷屋朝敏は、1700年首里の金城村に生を受け、1734年、34歳の若さで安謝港に於て「八付(磔)」にされた・・・“
という、衝撃的な導入から始まる碑文です(笑)
これは、当時の三司官、蔡温(政治の中心人物。つまり偉い人)を批判した朝敏をはじめとする数名が捕まり処刑されるという、平敷屋・友寄事件の事何ですが、個人的にこの碑文、この冒頭で心を鷲掴みにされちゃいました。
平敷屋朝敏に俄然興味が湧いた!!(笑)
この事件で朝敏は処刑、家族も流刑にされたり百姓身分に落とされるなど重い処分を受けます。
さらには朝敏作の組踊「手水の縁」も、長い間上演禁止と影響は作品にまで及びます。
幼い頃に父を亡くし6歳にして家を継ぐ朝敏。
成長し江戸で仏教を学ぶ傍ら和歌も学び、琉球に戻り結婚したと思いきや王妃との密通を疑われ家・屋敷を没収されるも、貧しいながら組踊「手水の縁」など数々の作品を残し、最後は王府を批判した事により磔にされるという、何とも壮絶な人生を送った平敷屋朝敏。
手水の縁の内容も、当時としてはすごく斬新だったと言いますし、反骨精神あふれた革命家ですな。
ワイトゥイ
思ったより平敷屋タキノーが長くなっちゃったけど、あといくつか紹介。
続いて紹介するのはワイトゥイ。
ここは、勝連平安名(へんな)南西部の比殿原(ひどぅんばる)、嘉慶名久(かげなく)の農耕地に通じる断崖を掘削した農道です。
元々、ここを通る人はこの険しい山(比殿バンタ)を登り降りしないといけなくてとても不便でした。
そこで、もういっそのことこの山を削って道を作っちゃえ〜!って作られたのがこの道です。
(実際はこんな軽い感じじゃなく、しかめっ面のおじさんたちが何人も集まって決めたと思いますが笑)
ここの何がすごいって、高さ約20m(高い所)、距離約150mを、クワやカニガラ(石割棒)を使い村人たちが約4年かけて(1932年〜35年)全て人力で掘削したって所です。
普段何気なく通ってる道も、こうやって先人たちの汗と努力の賜物だったりするわけですよ。
因みに、この道の正式名称は“比殿農道“なんですが、「割って取った道」と言う意味でワイトゥイと呼ばれています。
ガーラ矼(ばし)
ガーラ矼は1928年にガーラ矼のある饒辺(のべ)に住む学生が与勝尋常小学校へと通う通学路として建設された、石だけでできたアーチ型の橋で、人が乗って負荷が掛かればかかるほど、橋がぎゅっと閉まり頑丈になるという優れた造りになっています。
ガーラ矼以前の橋は木で出来ており、大雨で川が増水すると流されたりと危険でした。
そこで、昭和天皇の即位にあたってつくられたと言います。
ここまで説明しといてですが、この写真は1994年に石造りのガーラ矼の上に新たに造られた橋で、石造りの橋はこの下にあります。
道沿いにあった階段から下に降りて確認してみたんですが、木々が鬱蒼と生い茂って確認できませんでした。
ただ、今現在かかってる橋でも、車が通ろうが僕が飛び跳ねようがびくともしなかったので、ガーラ矼並みに強いと思います。
まとめ
勝連半島は史跡だけじゃなく、自然も豊かで僕の好きな場所のひとつなんで、ついつい足を運ぶ頻度が多くなりブログで紹介する機会も増える地域ですが、それだけ魅力的なんでみなさんも足を運んでみてください。
とりあえずこれで、勝連地域の紹介は一旦落ち着く・・・と思いきや、まだまだ紹介してない場所もあるから続くよ!
もちろん他の地域も紹介しつつ、中部多めの紹介にはなるだろうけどね。