沖縄の野球

沖縄は野球が盛んな地域でたくさんのプロ野球選手を輩出していて、人口比率で言うと全国でもトップなんです。
特に高校野球(甲子園)の熱狂っぷりは相当なもので、2010年に興南高校が甲子園春夏連覇した時なんて決勝戦の時には街中にひとっこひとり歩いていない状態でした。
今でこそ野球強豪県として定着していますが、もちろん初めから強かったわけではなく、むしろ激弱でした。
そんな沖縄の高校野球の軌跡を紹介します。

沖縄の野球の歴史

沖縄に「野球」というスポーツが伝わったのが1894年と言われています。
日本本土に野球が伝わったのが1873年と言われているので、本土より21年も遅れて沖縄には野球が伝わりました。
当時首里高校の生徒が修学旅行で京都大学を見学。その時に野球と出会い、京都大学の学生から色々と野球の説明を受け、野球道具をお土産に持ち帰った事から沖縄の野球がスタートします。

野球がアメリカから伝わった当初は野球ではなくもちろん「ベースボール」と言われてて、それを東京大学の野球部員が初めて「野球」と訳したのが、沖縄に野球が伝わった年と同じ1894年の事でした。
因みに、明治の有名な俳人正岡子規がバッターの事を「打者」、ランナーの事を「走者」、デッドボールを「死球」、フライを「飛球」と呼んだものが現在でも使われています。

※学校名は分かりやすいように今の名称に変えてます。

初の練習試合がメジャー

野球を持ち帰った沖縄の球児達は、自分たちで紅白戦をして楽しんでいました。
そんな中、1903年那覇港にアメリカ海軍練習艦ピッツパーグ号が寄港し首里城を見学。
その際、首里高校の野球練習を見た水兵たちが県を通して練習試合を申し込みこれが実現。
ベースボール発祥の地アメリカに対し、野球が伝わってまだ9年そこらの沖縄では技術の差は歴然で、今では当たり前のバッテリー間でのサインのやり取りや打者が1塁ベースを駆け抜ける様子、内野手のグローブなど初めて見るものだらけで沖縄の球児達は大変驚いたそうです。
逆に素手でプレーをする沖縄の球児がいる事に水兵たちは驚いたそうです。
それぐらい野球のレベルに差がありました。

その後、1922年に沖縄県代表として首里高校、那覇商業が初めて全国大会予選に出場して初戦を突破。初出場にしては良い結果だった事が沖縄に野球が定着するきっかけになったそうです。

沖縄野球の衰退

はじめての全国大会予選で幸先の良いスタートを切った沖縄野球。しかしその後は九州勢との力の差に圧倒される状況が続きます。20点差をつけられ大敗を喫することも珍しくなく、いっこうに力の差は縮まりませんでした。
それもそのはず。当時の沖縄は審判員もルールに詳しくなく、奥武山球場も外野の後ろが海でバックネットもマウンドも無いただの広っぱ。
技術や施設、色んなところで遅れをとっていたのです。
そんな中、追い打ちをかけるように戦争がはじまり沖縄の野球の歴史が一時中断する事になります。

沖縄野球の父の登場

終戦後、いち早く沖縄の野球を復活させた「沖縄野球の父」と呼ばれる人物がいます。
それが「国場幸輝(こうき)」さん。
国場さんは兵役は逃れたものの、戦後名護市(田井)の収容所での生活を余儀なくされます。
ある日、キャッチボールをしている米兵にグラブを借り下手投げを披露。本格的な投げ方に驚く米兵に英語でひとこと「ベイブルースを知ってるよ」
これがきっかけで打ち解け、収容所で米兵と一緒に野球をするようになったそうです。

この時、終戦直後の敗戦で打ちひしがれた人々に明るさを与えたのは野球でした。何の娯楽もない時に米軍から払い下げられたソフトボールの用具一式で名護、金武、石川の収容所対抗の野球が興り、手に入らない石灰の代わりに強力殺虫剤のDDTでラインを引いたそうです。
そのかいあってか、高校野球も1946年9月に第一回全島高等学校野球大会が開催されています。
しかし、沖縄戦で家や財産を失い命からがら生き延びた県民にとっては生きていくのがやっとの時期でした。なによりまず用具が手に入らない。
そんな中、さすがは米軍といったところか、野球を国技にしてるアメリカは戦場にも野球道具を持ち込んでたらしく、それらを使いなんとか大会は開催された。
当時の優勝旗は国場さんが球児を喜ばす為に発案した、米軍のパラシュートをマラリアの薬で染めた手作り優勝旗でした。
そんな国場さんは収容所を出たあとは糸満に移り住み、野球連盟の会長や沖縄タイムス運動部長などを務め大きく遅れていた沖縄の野球界のレベルアップに尽力しました。


戦後の野球

戦後、米軍統治下にあった沖縄は比較的早く野球が娯楽として復活しました。
1952年には石川高校を全国大会予選となる南九州大会に派遣。
この時、戦後初めての遠征という事で石川市民の熱狂っぷりがすごく、資金集めのために劇場で芝居をし、そこで選手の紹介をしたり、自家用でパレードをしながら那覇港までむかいました。
しかし、九州で野球道具を揃えたり、新品のスパイクのせいでマメができたり、何より実力差が激しく敗退。
その後も実力差が大きく九州予選で敗退を繰り返しました。

当時の沖縄代表は県予選で勝っても、九州予選でも勝たなければ甲子園には進めませんでした。

なので、沖縄県勢の甲子園初出場は一県一校制度が導入される1958年までおあずけになります。

初の甲子園出場

1958年、一県一校制度が導入された第40回記念大会で初めて、沖縄県代表が甲子園に出場します。
この時出場したのは県予選を勝ち上がった首里高校。
選手らは友人、保護者、学校関係者ら約1000人に見送られて泊港を出港。
24時間以上の船旅を経て甲子園球場に到着するも、残念ながら沖縄県勢の初めての甲子園は初戦で敗退することになる。
球児たちは甲子園の土をバックに詰め帰沖。
この時、沖縄はまだ米軍統治下で「外国」扱い。
当然球児たちもパスポートを持っての甲子園参加だったのだが、沖縄に戻る際に植物検疫法があり外国から土を持ち込むことが違法だった為、持ち帰った土を海に捨てなければならなかったのです。
捨てられた甲子園の土は全国でも大きな議論を巻き起こした。
ニュースでも取り上げられ、同情の声が寄せられ、日本航空のキャビンアテンダントが寄贈を計画し、学校や球児達に甲子園の小石や土で焼かれたお皿が贈られた。



沖縄勢の躍進

はじめに沖縄勢が活躍したのは1968年の第50回大会の時です。
我喜屋優主将(2010年に監督として春夏連覇)率いる興南高校がベスト4に進出した、いわゆる「興南旋風」だ。
この時沖縄中が沸いたそうで、新聞では「商売そっちのけ那覇商店街」や「官公庁の窓口業務も一時ストップ」他にも「田んぼに携帯ラジオ持ち出す 名護」や「映画を無料でサービス 宮古」など各地の熱狂っぷりを伝えたそうなんですが、各地の特色が出てるのが面白い。
さらには当時沖縄を統治していた琉球列島米国民政府のアンガー高等弁務官が興南高校ナインに激励電報を打ったそうだ(笑)
これがきっかけで沖縄勢の活躍も見られるようになってきたが、もう一歩のところが届きませんでした。
「優勝が先か、総理大臣が先か」なんて言葉も沖縄ではささやかれたりしました。

沖縄の野球といえば栽監督

沖縄の高校野球の歴史を振り返ると、必ず名前が挙がる人がいます。
それが名将「栽弘義(さいひろよし)監督」

栽監督は本土復帰した沖縄で球児達を率いて沖縄を野球強豪県に押し上げた名将。


本土復帰を果たした頃のウチナーンチュは、「どうせやまとんちゅ(本土の人)にはなにやっても勝てないよ〜」という感覚が一般的でした。

しかし、そんなウチナーンチュに蔓延する考えをどうにかしたい!と動いたのが栽監督。
1975年。当時 豊見城(とみしろ)高校野球部を率いていた裁監督。全国ではもちろん、県民にさえ球児達の実力は認められていない時代。
そんな中、栽監督は世間の予想に反し、甲子園を準々決勝まで勝ち進むという快進撃を見せ、準決勝では原辰徳(読売ジャイアンツ元監督)擁する東海大相模を9回2アウトまでリード、あと1歩!という所まで追い詰めたものの逆転負けを喫してしまいました。しかし、この快進撃が「豊見城旋風」として県内外から一躍大注目を浴びることになります。

その後、栽監督は沖縄の全校区から選手を集められ、広大なグランドの使用許可が学校側から下りたという理由で糸満市にある沖縄水産の監督に就任します。
その沖縄水産では1984年に甲子園出場を果たしたのち、1990年、91年には2年連続で甲子園準優勝。
それから沖縄でも全国相手に戦えるって意識が芽生え、今では良い指導者も増え全国でも強豪県として知られる様になりました。

僕は1986年生まれなのでこの当時の事はほとんど覚えてないんですが、決勝で奈良代表の天理高校に負けたイメージが相当あるらしく、甲子園が始まるとうちのオジーは必ず「天理はちゅーさんどー!(強いよ〜!)」って言います。

天理高校が出場していない時でも。

因みに栽監督は現役の高校生時代、糸満高校として決勝戦で首里高校と対戦し8ー6で敗れています。その首里高校が戦後初、甲子園に出場。
しかし栽監督はその試合で打率5割をマークし打撃賞を受賞しています。




沖縄を変えた男


そんな栽監督をモデルにした映画が2016年、沖縄県内限定で上映されました。それが「沖縄を変えた男」
主役の栽監督役をガレッジセールのゴリさんが演じ、県内でかなりのヒットを記録しました。
それぐらい沖縄県内での栽監督の知名度の高さが伺えたという事なんですが一方で、バイオレンスな指導部分を美化しているんじゃないか?という事で賛否がハッキリ分かれた作品でもあります。

ただ・・・僕この作品に出演しているんです!しかも、高校生役として(笑)
お世辞にも若々しいとは言えない僕なんですが、映画の中では1番最初に登場する高校生役です。
「老けてる僕がなんで?」って監督の岸本さんに聞いたことがあるんですが、「老けてるお前が最初に高校生として登場したら、後から登場する人はみんな高校生に見えるから」って言ってました。確かに(笑)

因みに僕は、そのバイオレンスな栽監督をボコボコにするっていうさらにバイオレンスな役です(笑)


あと映画の撮影中に発覚したのが、栽監督の娘さんが僕のご近所さんだったらしく、まったく知らなくて。
撮影現場に娘さんが差し入れを持ってきたときにお互いに「なんでご近所さんが!?」って感じで発覚しました。それからは仲良くさせてもらってます(笑)
娘さんご本人が言ってたんですけど、娘さんは沖縄水産高校ではなかったんだけど、別の高校から通いながら沖縄水産の野球部マネージャーをしていたそうです。そんな事したのは沖縄で私が初めてだったんだよ!!って言ってました(笑)

あ、それと娘さんって言ってますけど僕より年上です。(この記事本人に見つかりません様に笑)


まとめ

特殊な戦後を歩んできた沖縄は、スポーツにおいてもどんな歴史にも必ず米軍の存在が関わってきます。
本土復帰を願いながらも、時には軍の払い下げ品を利用し、強くしたたかに歩んできた沖縄の軌跡がそこにはありました。

かいたひと
ゴリラ勇介

沖縄で「ゴリラコーポレーション」というコンビで芸人をやっています。
普段は漫才やコント、新聞での執筆活動、ラジオで喋るのも聴くのも好きで、ラジオ沖縄では「people wave α」という番組もやりつつ、タイムテーブルでラジオコンシェルジュを執筆しています。RBCiラジオでも「只今いきものんちゅ」という番組をやっています。

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